人類、正しさなんてここにはないよ

好き嫌いの多いオタクのチラ裏 閲覧は自己責任

嫌い語りへ寛容になれ

お題「これって私だけ?」

繋がりを強烈に求めないコミュ障オタクにとって、Twitterは生きづらい。

生きづらくて逃げてきた。
信じられないことに、Twitterという場所では好きなジャンルで独り言を呟くだけで、フォローしてくる人・なんか褒めてくれる人などが存在する。
ありがてぇわと思ってしまったが最後、フォロワーの好まなそうな話題を避け意見を頭の中で止める萎縮オタクが出来上がっている。

オタクは本来それぞれ複雑に屈折した精神を持つため視点に毒がある。
そこがオタクの愛すべき面白さであるのだが、萎縮オタクは本人も幸せではないし、何より面白くない。


オタクは好き嫌いが激しい。
どうでもいい細部にまで拘る。
他人の目を気にしない。
それが不幸に気付かない幸せの秘訣なのである。


ところが昨今、オタ界隈ですら「みんなが好きを語ればみんなハッピー(嫌い語りは不快なので黙ってろ)」の同調圧力が強くなって正直ウンザリしている。

「楽しい=善」、「不快=悪」の図式である。

当然「誰もが不快になりたくない」から、「誰かが不快になりかねない要素」すら敏感に排除しようとするのだ。
そりゃ誰だって自分の好きなものを貶されるのは嫌だが、「誰かが傷付くから『嫌い』禁止!」ってのはおかしくないか?
我は空気を読んでしまう側の人間なのだ……


我は知りたがりなので自分の好きなものを嫌いだと言う人にまずは「どうして?どこらへん?」と思う。
我だって作品を100%肯定しているわけじゃないから相手に共感できるかもしれない。
根本的な価値観の違いなのか、誤解なのかくらいは知りたいのだ。


我は共感者を求める人間なので、感情的でもネガティブな意見でも詳しく具体的に書く。
「神」「クソ」なんて意見は説明不足すぎて取り合う気にならないからである。
共感して欲しいなら「どうして自分はそう思うか」を説明せよ。説明があるなら聞きたいし、納得できたり何か発見があるかもしれない。

そーゆーわけで、自分の主観による感想でも、具体例や根拠を出して説明しようとする態度はめちゃくちゃ好感度が高い。おまけに的確でユーモラスだとす〜ぐ好きになる。
まぁ根本的に価値観が違う人間っていうのは存在して、いくら聞いても話しても噛み合わないことも多い。
それは諦める。
関わらないのがお互いの為、間違っても相手を矯正してやるなどと思わないことだ。

社会、「批判=アンチ」と早とちりせず生産的で健全な批評精神を認めてくれ。
或いはシンプルにオタ界隈が実のある嫌い語りには寛容になってくれることを願う。


それに引き換え、濃厚な繋がりを必要としないブログは、気兼ねなく嫌いなものの話ができ、苦手を存分に自己分析でき、自由に表現・発信もできる救いの場だ。
言論の自由万歳!
ブログ最高!!